幼少期の記憶2
こんにちは 金沢支店工事課の吉澤です。
先日の皆既月食が生憎の曇り空で見られず残念だった方も多かったのではないでしょうか?
今回は5年程前のブログの続きになります。
5年程前、母が病に倒れました。無事手術を終えて回復し、家に戻ってきてから良き時間を過ごして欲しいと書きました。
戻ってきてからは、身体にハンデが出来たものの、自分のやりたい事をとことんやると言い、趣味であった絵や物を製作したり、友達と旅行や遊びに行ったりと忙しく過ごしていたと思います。
通院しながら療養は行っていたものの、去年の春、また体調が悪くなり手術を受けました。それからは入退院を繰り返し、秋に転院し再治療を受けましたが、医者からはもう治療としてできる事はないと言われたため、自宅に戻りたいという母親の思いを汲み取り、父が面倒をみながら、自宅介護をする事になりました。
母に対する私の態度は再び体調が悪くなるまで、余り変わりませんでした。それはとりあえず元気にしている姿があった事と、また体調が悪くなるとは真剣に思えてなかった事。一番大きいのは恥ずかしながら、昔から母をどこか面倒くさいと思い、反抗心があった事。親不幸な息子だったと今更ながらに反省しています。
その後次第に弱っていき、声もか細くなり聞き取る事もどんどんできなくなっていきましたが、私や家族に向かって必死で何かを伝えようとする姿に、私も良く聞こうと耳を傾け、私の話も良くするようになりました。必死で伝えようとする母の為に、筆談や小学1年生が使うような50音が書かれた文字板を使い会話もしました。途中からは痴呆が入ってしまった為か意味不明な事がとても多くなりましたが、小さな子供のようになっていく母と接するうちに、今までの反抗心も薄れ、反対に愛おしく感じるようになっていき、無条件で知ろうという気持ちになりました。こういう気持ちや姿勢が無条件で受容や共感する事なのだと改めて思う事ができました。
最後はこちらからの問いかけに答える事も出来ずに他界しましたが、皆に見守られながら、自宅での良き時間の最後を送れたのではないかと思っています。
何故今まで自分はこんなに反抗心を抱いていたのだろうか?
初対面の人にも自ら心を開いて近づいて仲良くなる。初見でもお店で働く従業員にも自分をアピールし仲良くなる、母の友達や知り合いに私が一緒にいると自分の息子だと紹介して色々世話を焼く。誰にでもそれをやってしまう、そんな母を恥ずかしいと感じていたと思います。また、それは私には真似できない事でした。そんな母に恥ずかしさを覚えていた事とそれができない自分への劣等感とを重ね合わせ、母の気持ちを考える事から逃避し真実が見えないまま、いつしか面倒な母だと決めつけてしまっていたのではないかと思います。
自分の進むべき道は自分で決める必要がある。しかしその道程には必ず「誰か」がいるのに、自分の事ばかりで、相手の事を考えない。
自分が何をしたいのかを考えても、相手の気持ちを考えた行動にならない。
自分の思いに合う人には重きをおき、合わない人を軽んじる。
勝手に決めつけ、相手の事を知ろうとしない。等
少なからず、こんな行動・言動になっていませんか?
そうする事で視野を狭くして、良い出会いや良い別れをする事が出来ずにいませんか?
「されば朝には紅顔ありて 夕には白骨となれる身なり」
葬儀でも読まれましたが、朝元気にしていても、その日のうちに見る影もない姿になる事があるという仏法の教えの一文です。
母は受容と共感する事にとても長けていたのだと改めて思うのと同時に、この教えのようにいつ自分がどうなるか分からないと思っていたかは分かりませんが、一瞬一瞬の時間を大事にしてきていたのだと思います。
このご時世にも関わらず、多くの方にご参列いただき、また多くの方が涙してくれました。それは母の言わずもがな交友関係の広さや生き様によるものだと思います。
自分自身まだまだ出来ていないことばかり。
人生の最後に、私に良き出会い・別れができるように、無条件に受容・共感できる自分自身に変える必要があると気づかせてくれたと思っています。その感謝を忘れず、自分の最後の時にも多くの方に参列していただけるように精進していきたいと思います。